鎌倉幕府

中世【鎌倉時代】後白河法皇の乱から源頼朝による鎌倉幕府の成立⇒「やる気」の解る日本史

ニワトリ先生
ニワトリ先生
今日は鎌倉幕府が成立するまでのお話です。

鎌倉幕府が成立するまでには、どのような人間ドラマがあったのでしょうか。人に着目しながら読んでみましょう。

治承・寿永の乱という、源平の内乱から始まった、源頼朝に夜鎌倉幕府成立までのお話です。

ここでは源頼朝に主に着目しながら順に追ってみたいと思います。

調子に乗りすぎた平家一族(1179年)

鎌倉時代の一つ前の「平安時代」において、平氏政権が確立したのは平清盛が太政大臣となった時からです。

平清盛が力をつけた後に、当時院政を行なっていた「後白河法皇」を1179年に幽閉しました。平清盛が独裁的な政治を行なっていたので、平氏政権は貴族達には評判が良くありませんでした。

後白河法皇が幽閉されて院政がされたあと、平清盛は自分の孫を天皇に即位させます。安徳天皇を1180年に即位させることで、天皇の祖父として政治の実権を強めていきました。

当時の平家の一族の中には「平家一門でない人は、みんな人ではない」という発言をする者もあったくらいです(平家物語、清盛義理の弟、平時忠)。

平家は調子に乗りすぎていました。

後白河法皇の皇子「以仁王」の反旗(1179年)

当然のことながら平氏に対する社会的不満が強く、貴族やお寺、地方武士の間では平氏に対する不満が充満していました。

そのような社会状況の中で、後白河法皇側も負けていません。平清盛が孫を天皇に即位させた1180年に、平家に対する対抗手段を講じました。

後白河法皇の息子である以仁王(もちひとおう)平家打倒のメッセージ(令旨)源氏(源頼政)の力を借りて、全国に発信したのです。

源頼朝と源義仲の挙兵(1180年)

平家に不満を持っていた反平家勢力は続々と反旗を翻します。平家に対して挙兵した反乱分子の中で特に有名な源氏勢力は次の二人です。

  1. 源頼朝(伊豆で挙兵)
  2. 源義仲(信州の木曽で挙兵)

以仁王の平家打倒メッセージ(令旨)に始まる、一連の源平の内乱のことを、当時の年号から文字って治承・寿永の乱とも呼びます。

平清盛の防衛(1180年)

源頼朝と義仲の挙兵を知った平清盛は動揺します。これまで平家に反抗する勢力はなかったのです。油断をしていたのでしょう。

動揺した平清盛は、公家と平家一門の反対を押し切り、都を摂津国「福原京(ふくはらきょう」に遷都してしまいます。現在でいうと兵庫県神戸市です。ちなみに福原京は源義仲に焼き払われてしまうのですが。

しかし、冷静になった平清盛は、源頼朝と義仲の反乱に対応するために、すぐに京都に戻ってくるのです。平清盛の慌てぶりが見受けられます。

一方、源頼朝は冷静でした。平家打倒を掲げて、源氏ゆかりの地である鎌倉で着々と組織づくりを進めます。軍隊(警察)組織に当たる「侍所」も整備しています。

平清盛の死(1181年)→後自河法皇の復帰

平清盛は相当動揺していたのでしょう。動揺のあまりか、平清盛は死亡してしまいます。

平家にとっては不幸な事象が続きます。平家の基盤である西国では飢饉も発生し、平家に対する不満は高まっていったのです。

清盛を失い、力が弱まった平氏は京都から落ちていきます。都落ちです。

都では平氏の力が弱まったため、後自河法皇は幽閉から脱出します。勢力を取り戻した後自河法皇は、源頼朝と義仲に対して支配権を承認します(寿永の宣旨)。

  • 源頼朝は東海道(江戸〜京都)・東山道(京都〜東北)の
  • 源義仲は北陸道(福井〜新潟の日本海側)の

支配圏を獲得したのです。

源氏内の主導権争い①⇒頼朝が主導権・義仲は死亡(1183年)

勢力を取り戻した源氏方も混乱していました。源氏内で勢力争いがあったのです。

「源頼朝」VS「源義仲」

という構図です。源頼朝は有能な源義経とともに、義仲軍に対抗します。

源頼朝と義経(鎌倉軍)は対立した義仲を討ちとり、源氏の主導権をとります。義仲は同じ源氏に討ち取られしまったのです。

源氏vs平氏⇒平家滅亡(1185年)

源氏内での主導権争いに勝ち、勢いがあった鎌倉軍は、平家に攻め入ります。鎌倉軍と平家軍の争いは、大きく3回行われました。

  1. 一の谷の戦(摂津国:大阪府と兵庫県)
  2. 屋島の戦い(讃岐国:香川県)
  3. 壇の浦の戦い(瀬戸内海の長門国:山口県)

という3つの戦いです。

壇ノ浦の戦いで遂に、平家は滅亡してしまうのです。

「平家は(一の谷)(屋島)(壇ノ浦)と言って滅亡しました」

源頼朝vs後白河法皇(1185年)

源氏は遂に平氏を滅亡させました。源頼朝には勢いが強かったのですが、もともと打倒平清盛で結束を高めた人々は、いざ平家を滅亡させてしまうと、今度は源氏側で内紛が発生してしまいます。

すなわち、

「源頼朝」VS「後白河法皇」

の争いが始まったと考えてください。

後白河法皇の立場で考えると、平家(平清盛)も源氏(源頼朝)は、自らの地位や権力を脅かす危険性を有するという意味では、同じく危険人物だったのかもしれません。

源頼朝を警戒し始めた後白河法皇は、頼朝の討伐へと動き始めます。後白河法皇は頼朝と不仲だった義経を味方につけて頼朝の勢力を削ごうとしました。

後白河法皇は義経に対して頼朝追討を命じたのです(院宣)。でも,それを知つた頼朝が1185年に鎌倉軍を京都にさし向けます。頼朝は遂に後白河法皇に降参してしまいます。

頼朝に恐れをなした後白河法皇は、頼朝に対して逆に義経追討を命じたのです(院宣)。

源氏内の主導権争い②⇒奥州藤原氏の滅亡・義経は死亡(1189年)

後白河法皇に裏切られた「義経」は、頼朝から逃げようとして、経は東北地方で最強だった豪族の「奥州藤原氏」を頼って平泉(岩手県)に逃れます。

一方、後白河法皇から義経追討を命じられた頼朝は、義経を討伐するために、地方に自分の配下を配置します。義経捜索のために包囲網を固めたのであり、義経を見つけ次第抹殺するためです。

  1. 守護(諸国で警察の役割を担う)
  2. 地頭(私有地である荘園/しょうえん、公領である国衙領/こくがりょうで警察の役割を担う)

守護と地頭という統治システムを構築していきます。義経包囲網です。

遂に頼朝は、義経が奥州藤原氏に匿われていることを知ります。怒った頼朝は義経をかくまった奥州藤原氏を攻めてて滅亡してしまいます。義経も死亡しました。

唯一ののぞみであった義経を殺されてしまった後白河法皇も、遂に頼朝に降参します。

源頼朝が鎌倉幕府確立⇒征夷大将軍に就任(1192年)

頼朝に降参した後白河法皇は、源頼朝に対して、

  1. 右近衛大将(右大将)の地位(1189)
  2. 征夷大将軍の地位(1192)

を与えました。

源頼朝は右近衛大将の申し出は断り、征夷大将軍の地位をもらうことにこだわりました。

東国武士の勢力を押さえつけるためには、頼朝は征夷大将軍としての地位が必要だと考えたのです。頼朝の天皇家に対するプライドもあったことでしょう。

でも後白河法皇は、頼朝に征夷大将軍の地位は与えませんでした。頼朝のことを警戒していたのです。

結局、後白河法皇が死亡した後に、京都にいた頼朝派の公家の力を借りて、頼朝は1192年に征夷大将軍に就任することになります。

源頼朝は征夷大将軍に就任し、晴れて源氏ゆかりの地である鎌倉で、鎌倉幕府を成立させたのです。