鎌倉幕府

元寇後、鎌倉幕府の力が衰えたのはなぜか?⇒滅亡した原因と理由は5つある(御家人の不満と、北条氏の得宗専制政治)

ニワトリ先生
ニワトリ先生
鎌倉幕府が二度の元寇を防いだあとのお話です。北条貞時が9代目執権のときに、北条一族は大きな力を持つようになります。

元寇後、鎌倉幕府の力が衰えた理由は3つありました。順に見ていきましょう。

鎌倉幕府(執権北条)の力が衰えた理由①⇒得宗専制政治

北条氏による執権政治は、御家人との協力体制をベースとした上でのものでしたが、

元寇勝利をきっかけとして、執権である北条氏の力は増しました。とりわけ、元寇後の時代は、北条家の中でも北条氏の嫡流の当主(北条氏一族の家督)を継ぐ一族である「得宗(とくそう)一族」による支配となっていました。

得宗家の権限が強い得宗専制政治となっており、また得宗の家臣が幕府の政治にも進出して御家人たちと対立するようになっていました。

有力な御家人が、得宗の家臣に滅ぼされる事件も起こっており、鎌倉幕府の権力は得宗に集中する得宗専制政治が確立していたのです。

御家人たちの不満は高まっていました。

1300年代に入ると、鎌倉幕府では得宗専制政治が更なる広がりを見せます。

  • 幕府な重要な要職
  • 多くの守護や地頭

が北条氏一族で締められるようになっていました。

鎌倉幕府(執権北条)の力が衰えた理由②⇒元寇勝利の恩賞なし

元寇に勝利した鎌倉幕府でしたが、困った事態に陥っていました。なぜなら御家人に対して何ら恩賞を与えることができなかったからです。

鎌倉幕府成立時には、源平の戦いの中で敗者である平家の領地を恩賞として御家人たちにに与えることができました。また、後鳥羽上皇の「承久の乱」の際も勝利した鎌倉幕府は朝廷の荘園を恩賞とすることができました。

一方、元寇の戦いは防衛戦争だったので、元国に勝利した鎌倉幕府は、戦いに動員した御家人らに恩賞を与えることができなかったのです。

元寇の戦いは御家人の活躍によって何とか勝利できたのですから(神風は吹きましたが)、御家人たちの恩賞に対する期待は大きなものでした。

元寇の戦いにおいては、御家人たちのなかには、土地を借金のカタにお金を融通して元寇に出陣した者もいたのです。恩賞を貰えずに困った御家人たちのなかには,借金を返せずに土地を失う者もいました。

御家人たちは困窮し、鎌倉幕府への不満が高まっていました。

鎌倉幕府(執権北条)の力が衰えた理由③⇒永仁の徳政令

生活に困窮する御家人たちの不満は募るばかり。また得宗専制政治により鎌倉幕府の権力を掌握していた9代目執権北条貞時は、御家人救済のため,1297年に永仁の徳政令を出します。

御家人には、

  • 所領の売買や質入れを禁じるとともに
  • 借金のカタとした所領の無償取り戻しを認めました。

御家人にお金を貸した人にとっては、

  • お金の貸し損になりました。

その結果として、御家人にお金を貸す人はなくなってしまいます。永仁の徳政令では、御家人を救済することはできなかったのです。

永仁の徳政令は、結果として、北条氏に対する御家人の不満を高めることになりました。

鎌倉幕府(執権北条)の力が衰えた理由④⇒皇位継承の争い

1221年の後鳥羽上皇による「承久の乱」のあと、鎌倉幕府(執権北条氏)は朝廷の皇位継承にも介入していましたが、天皇家の皇位継承の争いの揉め事の矛先が、鎌倉幕府に向かったという事情もありました。

持明院統と大覚寺統の争い

鎌倉時代の1200年代後半においては、天皇家では「皇位継承」と「荘園の支配権」を巡って、持明院統大覚寺統が争っていました。

  • 持明院統(じみょういんとう)とは、後深草(ごふかくさ)天皇の系統です。後の北朝です。光厳天皇(こうごんてんのう)は持明院統でした。
  • 大覚寺統(だいかくじとう)は後深草天皇の弟の系統でした(亀山天皇)。後の南朝です。後醍醐天皇は大覚寺統でした。

天皇家は兄弟グループで争っていたのです。

鎌倉幕府(執権北条)による両統迭立の提案

持明院統と大覚寺統の皇位継承について、鎌倉幕府(執権北条氏)は仲裁に入ります。「両統は交互に皇位に就くように」という両統迭立(りょうとうてつりつ)です。

両統迭立の提案により、朝廷政治をコントロールしようとした鎌倉幕府でしたが、これが大覚寺統の後醍醐天皇の不満を高めてしまいます。

後醍醐天皇は天皇中心の政治を目指すようになります。

後醍醐天皇の不満⇒倒幕計画

後醍醐天皇は2つの倒幕計画を起こしました。

  1. 1324年の「正中の変(しょうちゅうのへん )」
  2. 1331年の「元弘の変(げんこうのへん)」

2つの計画はいずれも失敗に終わってしまい、後醍醐天皇は隠岐(おき)に島流しされてしまいます。

鎌倉幕府は、大覚寺統に対抗する持明院統の光厳天皇(こうごんてんのう)を即位させますが、これが後醍醐天皇側の勢力の反感を買いました。

鎌倉幕府(執権北条)の力が衰えた理由⑤⇒悪党の広がり

鎌倉幕府は、東国の武士たちを御家人として統制することに成功していましたが、西国の武士たちをコントロールすることありませんでした。

承久の乱の後、新補地頭に任命されたものは東国の御家人であったため、多くの西国の武士たちは所領を失い没落していたのです。

没落した西国武士たちは、

  • 商業に手を出す者
  • 地頭の代官になる者
  • 荘園領主から年貢を請け負う者
  • 高利貸しを行う者
  • 山賊や海賊になる者

など多様でした。

御家人の東国武士とは異なる行動をする西国武士は、悪党と呼ばれました。悪党は荘園領主や鎌倉幕府と対立することが多かったのですが、朝廷や寺院と結びつきを持つ者も多かったのです。

このように、鎌倉幕府の反対勢力である「悪党」たちが力をつけていたのです。悪党の代表格としては「楠木正成(くすのきまさしげ)」を挙げることができます。

1333年の鎌倉幕府滅亡に向かって

得宗専制政治を押し進める執権北条一族に対しては不満を持つものが多く、倒幕の機会を伺うものたちは多かったのです。

鎌倉幕府に逆らう者としては、

  1. 後醍醐天皇
  2. 西国の反幕府勢力である悪党(源平の騒乱から承久の乱の間で没落した者たち)
  3. 鎌倉幕府の御家人たち(足利高氏など)

などだったのです。