源頼朝が亡くなった後は、部下である御家人の有力者であった北条氏が政治の実権を握るようになります。
北条氏が支配した鎌倉幕府の様子を確認して行きましょう。
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源頼朝の死後⇒北条氏の執権政治の始まり
源頼朝は鎌倉幕府を強力なパワーで確立させました。平家を打ち破り、源氏内における勢力争いにも勝ち、征夷大将軍となった源頼朝は、御家人たちを支配下におく独裁政治を確立させました。
2代目源頼家
しかし、源頼朝が亡くなり、頼朝の子どもである源頼家(よりいえ)が2代目に就任すると、政治が不安定さを増して行きます。
2代目の将軍頼家は、父親の頼朝に比べると政治力や統率力が劣っていたようです。息子頼家による独裁政治に不安を抱いた母親の北条政子(ほうじょうまさこ)は、父親の北条時政(ときまさ)に相談し、力を借ります。
北条時政は、頼朝配下の御家人であり、頼朝の後見役の地位もあったので、御家人の中でも有力者の地位にあったのです。
3代目源実朝、執権北条時政
結局のところ、北条時政は孫である2代目将軍頼家を殺害し、頼家の弟を3代目将軍の地位につけます。3代目将軍は僅か12歳の源実朝(さねとも)です。
孫同様の源実朝を将軍として、自らは幕府の実権を握るべく将軍補佐役である「執権」の地位に就きます。
鎌倉幕府の将軍は、
- 初代は、源頼朝
- 2代目は、源頼家(北条時政が殺害)
- 3代目は、源実朝(北条時政が執権)
というように代替わりをして行きます。
また、北条氏の執権たる地位も
- 初代、北条時政
- 2代目、北条義時(時政の息子)
と代替わりをして行きます。
2代目執権北条義時
2代目北条義時は、軍隊の長官(別当)であった御家人和田義盛を滅ぼして、執権の地位の他にも、軍隊の長官(別当)と内閣の長官(別当)の地位も兼任します。
軍隊(侍所)と内閣(政所)の長官も兼任することにより、北条義時は「執権」の地位を確実なものとしたのです。
《鎌倉幕府の統治システム》
- 軍隊(侍所/さむらいどころ・御家人統括)
- 内閣(公文所/くもんしょ⇒政所/まんどころ)
- 裁判所(問注所/もんちゅうじょ)
独裁政治の源頼朝→合議制の北条時政
北条氏の執権政治が始まりましたが、源頼朝の独裁政治と決定的に異なる点があります。それは執権政治は、有力御家人13人での合議制で政治が行われていたことです。
北条氏は将軍の補佐をする執権の立場に過ぎなかったので、独裁政治をすることは難しかったという事情があります。
しかし北条氏は執権として、御家人の中でも絶大な力を確立させて行きました。
鎌倉幕府(北条氏)と朝廷(後鳥羽上皇)の対決(承久の乱)
北条氏と後鳥羽上皇の関係は良好だった
さて、北条氏が鎌倉幕府で力を強めていく中で、北条氏は朝廷とも良好な関係を築いていました。
後鳥羽上皇は、3代目将軍である源実朝の命名をしたものです。執権である北条時政は源実朝の祖父的立場でもあったのです。後鳥羽上皇と北条時政は「源実朝」を通じて関係がありました。
ここまでは、北条氏と朝廷は仲が良かったのですが。。
これ以降、北条氏と朝廷との関係(朝幕関係)は悪化していくことになります。
後鳥羽上皇の反乱(1221)⇒承久の乱
きっかけは3代将軍源実朝の暗殺がきっかけでした。実朝の兄だった2代目将軍源頼家の子供である公暁(くぎょう)によって実朝は殺されてしまいます(1219)。
頼朝が鎌倉幕府を成立してから朝廷で権力を持っていた後鳥羽上皇は、朝廷の東側(鎌倉)ではなく、北側の武士と西側の武士と連携をとっていました。
自らが命名した3代目将軍の実朝が殺されてしまった後鳥羽上皇は怒り、2代目執権であった北条義時(よしとき。時政の子供)との関係が悪化していきます。後鳥羽上皇は勢力を拡大しつつあった北条義時のことを警戒していたのでしょう。
後鳥羽上皇は反鎌倉幕府の武士に向けて、北条義時追討のメッセージ(院宣)を発信します。
ここに「承久(じょうきゅう)の乱」が発生したのです。
後鳥羽上皇 VS 2代目将軍の執権北条義時
北条氏の勝利(尼将軍、北条政子)
源頼朝が死んだ後、北条時政が執権として勢力を伸ばしていましたが、同時に源頼朝の妻であった北条政子(尼将軍と呼ばれていました)が、鎌倉軍の武士たちを鼓舞します。
北条政子の鼓舞もあり勢いづいた鎌倉軍は、2代目執権である北条義時の指示のもとに京都に攻め入ります。京都に攻め入った鎌倉軍の指揮したのは、北条義時の子供(泰時/やすとき)と、義時の弟(時房/ときふさ)でした。
1代目 北条時政
2代目 北条義時(時政の子)
3代目 北条泰時(義時の子)
1代目 源頼朝
2代目 源頼家(北条時政が殺害)
3代目 源実朝(源頼家の子供が殺害)
承久(じょうきゅう)の乱は、北条義時の勝利!
朝廷に勝利!執権2代目 北条義時の政策
後鳥羽上皇(朝廷)に勝利した北条義時(鎌倉幕府)は、朝廷に対して力を持つようになります。
(1)朝廷監視機関として六波羅探題を設置
鎌倉幕府は、まず朝廷監視機関として新たに六波羅探題(ろくはらたんだい)を京都に置きます。初代の六波羅探題には、後の3代目北条泰時(と時房)が就任します。
鎌倉幕府の地方統制システムは、次の通りでした。
- 京都守護(朝廷と折衝、西国御家人を統率、京都警備)
- 鎮西奉行/ちんぜいぶぎょう(九州統括)
- 奥州総奉行(東北総括)
- 守護/しゅご(国ごとの警察)
- 地頭/じとう(荘園・国衙領ごとの警察)
このうち、京都御所が六波羅探題となったのです。
(2)朝廷領地を没収⇒地頭に付与(新補地頭)
また、2代目北条義時は朝廷から土地を没収して地頭に与えます。このときに新たに地頭となった人のことを「新補地頭(しんぽじとう)」と呼びます。
以前からの地頭は「本補地頭(ほんぽじとう)」と呼ばれていましたが、新補地頭は優遇されまして、米の徴収権と,免田(税を納めなくてもいい田, 給田とも呼ばれた)が与えられました。
(3)後鳥羽上皇は島流しに
2代目北条義時は、後鳥羽上皇は隠岐に島流しにするとともに、
(4)皇位継承に介入
また、皇位継承にも口出しするようになり、後堀河天皇を即位させました。
執権3代目 北条泰時の政策
後鳥羽上皇を破った「執権2代目の北条義時」も死亡すると、初代六波羅探題であった義時の息子「泰時」が3代目の執権に就任しました。
執権・連署・評定衆による合議
3代目執権の北条泰時(やすとき)は、新たな役職を設置します。
- 連署(れんしょ)…執権補佐役
- 評定衆(ひょうじょうしゅう)…合議制で行政・司法・立法のすべてを司った
また北条泰時は、鎌倉将軍には摂関家(摂政・関白を独占した最上級の公家である藤原氏)から招きました。九条(藤原)頼経。最初の摂家将軍です。
摂家将軍⇒九条(藤原)頼経
連署⇒泰時の叔父が就任
評定衆⇒有力御家人
摂家将軍をサポートするために、3代目執権の北条泰時と、連署・評定衆は合議で支えることになります。
貞永式目=御成敗式目の制定
また北条泰時は、裁判基準を明確化するために、貞永式目(じょうえいしきもく)51か条を制定します。御成敗式目(ごせいばいしきもく)とも言います。
承久の乱後、御家人の所領をめぐる争いが多発したため,公平な裁判基準を作ろうとしたのです。御成敗式目は御家人に対してのみ適用されました。
執権5代目 北条時頼の政策(泰時の政策を継承)
3代目執権の北条泰時の「孫」である北条時頼(ほうじょうときより)の時代に入ります。北条時頼は5代目執権として泰時の政策を受け継ぎます。
5代目執権の北条時頼は、反対勢力を宝治合戦で減ぼし,将軍職を継いでいた九条頼経の子どもである頼嗣に変えて、新たに宗尊親王(むねたかしんのう)を将軍にしました。最初の皇族将軍の誕生です。
さらに所領裁判の迅速化を図るために引付衆(ひきつけしゅう)を設置しました。
摂家将軍⇒宗尊親王(皇族将軍)
連署
評定衆
引付衆(新たに設置)