鎌倉幕府の執権5代目「北条時頼」の子どもである「北条時宗(ときむね)」が8代目執権に就任したときの話です。
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モンゴルの領土拡大路線⇒日本への侵攻
元寇とは、「元」という国から日本が侵略攻撃を受けたことを言います。中国大陸においては絶えず領土争い起きていましたが、中国大陸の大国が日本にまで領土拡大のために侵攻してきたのです。
元国はもともと、13世紀はじめにチンギスハンが中国内陸部に建国した「モンゴル国」が元の由来です。
チンギスハンの孫であるフビライの時代になつて、国の名前を「モンゴル」から「元」に改名すると、領土を拡大しようと考えます。元国は、
朝鮮半島の高麗(こうらい)を支配下に置くと、
日本も支配下に置こうとします。
元のフビライは、鎌倉幕府に対して朝貢(ちょうこう)を求める使者を何度も使わしてきました。ですが、鎌倉幕府の8代目執権である北条時宗は元国に対して貢物を贈ることを拒み続けます。
時宗が朝貢を拒否したことから、元のフビライの怒りは頂点に達します。元国はついに高麗軍を従えて日本に侵攻してくるのです。
1回目の元寇(蒙古襲来)⇒1274年文永(ぶんえい)の役
かろうじて鎌倉軍が勝利
元は大軍を率いて日本に攻めてきます。
元の軍隊は、最初に対馬(長崎県の島)・壱岐(長崎県の島)を侵略した後、福岡県の博多湾に攻めてきます。
第1回目の元寇では、元の軍隊は難なく博多湾を制圧して、上陸してくるのです。
元の侵略に対して、鎌倉幕府(執権北条時宗)は、九州の御家人を中心とした軍隊で防戦するのですが、鎌倉幕府の御家人たちは元軍には歯が立ちません。
何せ元軍は、大軍であるだけではなく、
- 火薬をこめた「てつはう」という武器を使用し、
- 毒矢を使用、
- 太鼓やどらを打ち鳴らす、
といった集団戦法で攻めてきたのですから。
刀と弓矢で戦う一騎打ち戦に慣れていた鎌倉軍は苦戦を強いられてしまい、太宰府(福岡県太宰府市)まで徹底を余儀なくされます。
元軍と鎌倉軍の間の攻撃力の差は歴然でした。
鎌倉軍は多くの死傷者を出してしまい、戦いは劣勢でしたが、たまたま博多湾には暴風雨が吹き荒れたので船で襲来してきた元軍は大きな損害を出してしまい、博多湾から撤退することになります。
日本が暴風雨によって、元の襲来を防いだこの事変のことを「文永の役」と言います。1274年の出来事です。
鎌倉軍(北条時宗)の防衛対策
元軍の強さを実感した執権北条時宗は、元軍の再度の来襲に備えます。
鎌倉幕府の御家人を動員して博多湾沿岸に、防御用の石塁(石築地)を造ります。
それに、異国警固番役の強化も図りました。
2回目の元寇(蒙古襲来)⇒1281年弘安(こうあん)の役
7年後、 2度目の元寇(蒙古襲来)は1281年に発生します。2回目の元寇のことを弘安
の役と言います。
1回目の元寇で敗退した元は、1回目の数倍の大軍で博多湾に攻めてきます。7年間の間に元国は南宋という国を滅亡させていました。南宋からも軍を動員し、元・高麗軍と旧南宋軍を従えて日本に再来襲してきたのです。
2回目の元寇に対して、鎌倉幕府は事前準備していたこともあり、また多くの武士たちが善戦したこともあり元軍の博多湾上陸を阻止します。
そして2回目の元寇でも、またしても大暴風雨が発生したことで元の軍隊は壊滅状態に陥り撤退することになるのです。
鎌倉軍(北条時宗)の防衛対策
軍力に勝った元が二回連続で敗退した理由は、
- 海を越えた侵略という戦い方が経験不足だったこと
- 従軍させた高麗と、南宋の人の反乱があったこと
- 九州地方の鎌倉幕府の御家人の活躍
を挙げることができました。
鎌倉幕府は三度目の元寇(蒙古襲来)に備えてます。
8代目執権の北条時宗の子供である、9代目執権の北条貞時(さだとき)の時代になると、九州の政務を行う鎮西探題(ちんぜいたんだい)も置くことになります。鎮西探題は北条一族から任命することとなりました。
蒙古襲来を防いだ暴風雨
二度に渡る蒙古襲来を防御した大きな原因は、タイミングよく吹いた「大暴風雨」にありました。
この大暴風雨のことを当時の人々は「神風」として、日本は神風で守られているという考えが高まり「神国思想」が始まります。仏様よりも偉い神様がいるという考えから、伊豆神道が確立していきます。