鎌倉幕府

鎌倉幕府の崩壊!滅亡後の後醍醐天皇による朝廷政治⇒建武の新政から南北朝時代の始まり迄

ニワトリ先生
ニワトリ先生
鎌倉幕府の滅亡と、滅亡後のお話です。

鎌倉幕府は1333年に滅びました。

幕府滅亡後におきた後醍醐天皇による建武の新政から、南北朝時代の始まりまでを見ていきましょう。

鎌倉幕府の滅亡

後醍醐天皇の両統迭立

承久の乱以降、天皇家では皇位継承と荘園の支配権を巡って、持明院統と大覚寺統が争っていたことは既にお話ししました。

持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)の争いに介入したのが鎌倉幕府(執権北条氏)でしたが、鎌倉幕府が提案したのが「両統迭立(りょうとうてつりつ)」であり、

持明院統と大覚寺統の天皇家が、交互に皇位を就くことになっていたのです。鎌倉幕府による両統迭立の提案に従い皇位についていたのが後醍醐天皇(ごだいごてんのう)でしたが、

自分の息子も皇位につけたかった後醍醐天皇にとっては、両統迭立は邪魔なルールだったのです。

持明院統(のちの北朝)VS 大覚寺統(のちの南朝)

後醍醐天皇の倒幕計画

両統迭立のルールが邪魔になった後醍醐天皇は、鎌倉幕府の倒幕を計画しました。1324年には「正中の変(しょうちゅうのへん)」を、1331年には「元弘の変(げんこうのへん)」の倒幕計画を企てますが、計画はいずれも失敗してしまいます。

鎌倉幕府は後醍醐天皇の皇位を剥奪して隠岐(おき)に島流しとして、代わりに持明院統(北朝)から光厳天皇(こうげんてんのう)を即位させました。

後醍醐天皇側の反撃と、鎌倉幕府の滅亡

これに対して、大覚寺統は鎌倉幕府に反撃を始めます。

  • 後醍醐天皇の皇子(護良親王もりよししんのう)の挙兵
  • 悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)の挙兵
  • 後醍醐天皇が隠岐から脱出

さらに、執権北条氏の得宗専制政治に不満を抱いていた、鎌倉幕府の有力御家人たちも幕府に反撃に出るのです。

  • 御家人の足利高氏(あしかがたかうじ)が六波羅探題を攻撃
  • 御家人の新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉幕府を攻撃

六波羅探題と鎌倉幕府が制圧されると、得宗であった14代執権の北条高時(たかとき)は自害します。

1333年の話であり、遂に鎌倉幕府は滅亡したのです。

ちなみに、足利氏と新田氏は清和源氏の流れを組む武士であり、北条氏は桓武平氏の流れを組む流れでした。足利高氏はその功により、後醍醐天皇の名である「尊治(たかはる)」の一字を付与されました。足利尊氏と名前を改めます。

清和源氏(足利・新田)VS 桓武平氏(北条)

後醍醐天皇の「建武の新政」

建武の新政

遂に鎌倉幕府(執権北条氏)を滅亡させた後醍醐天皇は、天皇による朝廷政治を復活させます。

持明院統(のちの北朝)VS 大覚寺統(のちの南朝)

鎌倉幕府が擁立した持明院統の光厳天皇(こうごんてんのう)を排除した、大覚寺統の後醍醐天皇は、天皇による朝廷政治を復活させます。

後醍醐天皇による朝廷政治の復活を「建武の新政(けんむのしんせい)」と呼びます。後醍醐天皇は1334年に年号を建武(けんむ)と改めたことが呼称の由来です。

建武政権の機構

後醍醐天皇は、

  1. 摂関・院政を停止し、
  2. 京都中央に政権を行う「記録所」
  3. 京都中央に裁判所として「雑訴決断所」

を置きました。

もっとも、完全なる天皇政治という訳ではなく、地方(諸国)には、

  1. 国司(こくし)
  2. 守護(しゅご)

を併せて置いたのです。

ちなみに、建武政権は後醍醐天皇の独裁政治の様相を呈していました。もともと鎌倉幕府の源頼朝は独裁政治であり、その後の執権北条氏は当初こそ合議制でしたが、得宗専制政治においては独裁政治になっていました。得宗専制政治に反抗した後醍醐天皇も結局同じく独裁政治の形態だったのです。

建武の新政の終わり

後醍醐天皇が全ての最終意思決定を下したのですが、武家社会と公家社会のルールを無視したことから反感を買います。

鎌倉幕府の倒幕の功労者であった御家人足利尊氏でさえも軽んじた扱いをします。足利尊氏を新政権の要職に付けなかったのです。

北条氏に代わる新たな武家政治を確立させることが夢であった足利尊氏は、六波羅探題を滅ぼした頃から諸国の御家人たちから信望を得ていたのですが、

1335年に、鎌倉幕府の最後の得宗(とくそう)の遺児が鎌倉で反乱(中仙台の乱なかせんだいのらん)を起こしたときに、足利尊氏は後醍醐天皇の反対を押し切り、京都から鎌倉に攻め入り反乱を制圧します。

後醍醐天皇に謀反を起こした足利尊氏に対して、後醍醐天皇は攻撃を仕掛けたため、足利尊氏は九州にまで一時撤退しますが、

後醍醐天皇の大覚寺統と対立していた持明院統(光厳天皇)から公認軍として認めてもらい反撃に出ます。

遂に京都を選挙した足利尊氏は、持明院統の光明天皇(光厳天皇の弟)を擁立して武家政治を再興するのです。ちなみに1338年には足利尊氏は征夷大将軍に任命されることとなります。

京都を追われた後醍醐天皇は奈良県吉野に逃れ、我こそが天皇であることを主張しますが、建武の新政は終わりを迎えるのです。建武の新政は僅か3年ほどで終了したのです。

南北朝時代の始まり

建武の新政はこのようにして終わりを迎えまして、南北朝時代に突入していきます。

京都には足利尊氏を支持する「持明院統の北朝」

奈良吉野には後醍醐天皇の「大覚寺統の南朝」

南朝と北朝が対立しあう、約60年間にも及び南北朝時代が始まるのです。